THE NETHER@グローブ座 2回目観てきた覚え書き※ネタバレあり
ご縁があって初日観ていたんですが、どう感じたものか考えたものかうんうん唸ってるうちに日が経ってしまっていた。色々と謎が解けた状態で観るとこんがらがっていた糸がするすると解け初回とはまったく違う感想を持つことができたので2回め観劇覚え書き。ネタバレあります。
『裁かれない』ものがたり
「わたしは彼らを裁かない!神も彼らを裁かない!」──ドイル
取り調べを受けるドイルが絞り出すように吐き出したこの言葉。まさにこの台詞を体現したかのような作品だなと。
「いいかね、わたしは病気なんだ」──シムズ
「ハイダウェイが歪んだ者たちを引き寄せてきたことはわかっている!」──ドイル
子どもとの性行為や殺戮を体験する理想郷、ハイダウェイは『現実における法と倫理』を犯しているという疑いを持たれ罰せられようとしている。
北山くん演じるモリスは「裁く者」としてこの物語に立ちはだかる。鋼鉄の正義感によって行動しているように見えるモリスだが、その執着にはある私的な感情が絡んでいることがわかってくる。それはNETHERにのめり込むがあまり現実世界を捨て廃人となり、決してモリスを見てくれなかった父の存在。そしてハイダウェイに訪れたモリスにもうひとつの動機が訪れる。それが接待役の少女アイリスへの恋情。
この物語には『法』『倫理』『神』など絶対的な存在を示す言葉がしばしば登場する。そしてモリスもはじめはそれらを遵守する番人のような顔をしてそこに立つが、実はどこまでも『私的な感情』に振り回されている。(そして本人にほとんど自覚がないまま、それは恋した相手の死という悲劇すら呼び起こしてしまう)
つまり、この物語には絶対的な価値観は存在しておらず、歪みを内包した3人の男が3通りの物語を生き、彼らを善だとも悪だとも判じない。この姿勢は人間という不完全な存在に対してのフラットな視点、そしてやさしさの現れだと感じた。
そして彼らを裁かないまま、ただ観客に問いかけを残して終わる。
「わたしはどうなっていたんでしょうね?」──モリス
「わたしは、どうなるんだろうね?」──シムズ
もしあのまま、感情の赴くままハイダウェイにいたら(モリス)、性癖を解放するためのハイダウェイという場所がなかったら(シムズ)。対比するようにつぶやくこの言葉の答えは、観た者がそれぞれ考えるべきものだ。だがきっとモリスの心のなかには、すでに答えがあるように見えた。本人がそれに気付いているかはわからないけれど。
彼らを縛る、『法』『倫理』の正体
「あなたは、自由です」──モリス
すべてが終わり、モリスはシムズにそう言い残す。ハイダウェイを禁じられたシムズが現実世界で自由であること、それがいいことだとも悪いことだとも言わない。ここまで荒ぶりながら議論を戦わせてきた彼らにとって、義務や権利や倫理は武器として扱われていた。でも、この台詞で言われている『法における自由』はあまりにも頼りないものに感じる。
「(法律は今のあなたを縛ることはできません。それが正しいのか間違っているのかはわからない、それでも事実として、)あなたは、自由です」
言外にそんな意味を含ませた一言に聞こえた。
ハイダウェイがのこしたもの
断罪と空虚な議論の果てに残ったのは、ドイルの死とハイダウェイの消去という現実だけに見える。
だが、本当にそうか?
その答えとして、エピローグの数シーンがあるのではないか。
『現実の』姿をしたパパとアイリスのシーン。THE おじさんのふたりが父と少女として愛を交わし合う様子はただただ滑稽に見えてもおかしくないのに(むしろそう見えるように演出していると思う)、その姿はあまりにも、あまりにも眩しい愛に満ちている。
パパはアイリスに入り込みすぎないように言い、線を引いた。だが、それはモリスが考えたとおり『パパはアイリスを愛していなかった』ということになるのか?
「アイリス、わたしがきみをどんなに愛しているか、わからないだろうね」──パパ
おそらく、そうではない。シムズが言ったとおり、「あの言葉はすべて本当だった」のだ。愛はあった。そして愛があるゆえ同時に、戸惑いも、執着も、恐怖も、たしかにあった。
最後のシーン。モリスはまるではじめて雪の冷たさを知ったかのように振り来るそれに手を伸ばし、暗い空を見上げる。
そう、彼はほんとうに、「はじめて気付いた」のだと思う。父への渇望とNETHERへの復讐のために生きていたはずが、ハイダウェイで、その美しい世界で初恋と幸福を知り、はじめて彼自身の人生を生き始めた。
シムズは言う、ここは結果がない世界、だからすべての行為は許される。少女と性行為をしてもいい、その身を斧で打ち殺してもいい。それに対してウッドナットは考える。
「結果がない、そんなことはありえるんだろうか?」──ウッドナット
『結果』がないなんてありえない。彼らは確かにそこに生きて感情と経験を得て、生まれ直してすらいたのだから。
取調室とハイダウェイ、理性と情動、鏡合わせの世界の果てに
殺風景な取調室のなかで激しく交わされる議論、そして美しく穏やかなハイダウェイで交わされる愛と死にまつわる感情、交互に訪れるそれらはまるで違う世界のようでいて、3人の男が鏡合わせのように生きている場所だった。
「あなたは、自由です」──モリス
この台詞には前段がある。
「わたしたちは学び続ける」──モリス
絶対的な何かは人間を裁かない。裁いてくれない。自由は孤独で頼りない。それでも思考することを諦めなければ、広大な自由の先を照らすかもしれない。
この作品は答えを教えてはくれない。だがたとえ確固たる何かがなくても、考え学び続けろという強いメッセージがあった。
とっても個人的な感想
- この台詞がめちゃめちゃ好きだった。生きるということはとても私的なことだ。「そんなことはどうでもいい。大事なのは、そこで幸福を感じていたということです」──モリス
- 自分はシムズ側の人間なのですがその視点でみた第一印象、「このひとめちゃくちゃ理性的だな?????現実で犯罪おかすまえに排泄場所つくってしかもクオリティ最強とかとんだハッカーだな?????」でした。いやまじで仮想空間であれこれ間に合わすくらい大目にみてほしい……
※ここでいうハッカーとは超クールなギークエンジニアのこと - ドイルの台詞「もう、ここは、嫌なんだ……!」が身につまされすぎて、それな……ってなった……それな……
- 愛の証明に秘密をプレゼントするって素敵すぎないか?
- そして自分を信頼してもらうための言葉が「初恋だったんです」もなかなかに素敵すぎないか?これは前半の鋼鉄の正義感モリス像があるから活きるんだよな
- もし仮にNETHERがあったら?
ライフサポートシステムの安全性が高くなり次第、移住を検討するんじゃないかな。台詞の端々からみるに、この世界ではNETHERで過ごすひとが増えてることで現実的な生産量がだいぶ下がってるみたいだし、そのへんが課題視されているんだろうけど……
とはいえ世界がNETHERだけになったら息苦しいと思うので(Twitterアカウントがひとつしかない世界のようだ)現実との二足のわらじが楽な気がする。ひとりになりたいときに現実に戻るというさかさまの現象がおきそう。 -
ラストシーンの雪に触れるモリスがほんとによい……本日双眼鏡忘れたので次回(ラスト)ガン見したい。
- 双眼鏡がなかったので声の演技に集中したのだが北山くんって声に力あるよね!
THE NETHER
備忘
今回のことで『担当の方の気持ちがわかる』『実は好きだった』なんて書くつもりは一切ないっていうことだけ前提として言っておく。
ただ自分の中での備忘の意味で。
12年前の夏、ある舞台が終わると共に元担が辞めた。
他のJr.たちと同じように、予告もなく、挨拶もなく辞めた。
もともとJr.は不安定な立場で、いついなくなっても仕事に呼ばれなくなってもおかしくない。だからこそ現場に行けるときは必死で行っていた。
その夏は、詳細は言えないけど、後悔したくないなら来い、という話だけが回ってきた。どこか覚悟を決めた静かな気持ちで、毎公演みていた。
そして彼は音もなくいなくなった。
もう舞台をみにいってもステージの上にはいない。コンサートで馴染みの曲がかかると、踊っている姿が頭のなかでは再生されるのに、でも、現実にはいない。
ステージにいないということは、ジャニヲタにとって、その人が世界から消えたということと同じなんだと痛いほど繰り返し気づかざるをえなかった。*1
ジャニヲタなんてクソだとおもった。
そしてヲタ卒した。
このときの経験はどうやらかなりのストッパーになったようで、北山くんと出会ってもしばらく積極的に関わっていこうという意識までもっていけなかった。
でもジャニヲタに戻る、担当になる、と決められたのは、彼が『意志の人』であり『覚悟の人』だったからかもしれない。
このひとなら、と思えたのかもしれない。
そして迎えたデビュー。
これでもう、北山くんをずっとみていられる。
もう、いついなくなるのか、世界から消えるのか、そんなことを心配しなくていいんだ。それがいちばん嬉しかった。
北山くんになにかメッセージを贈るとき、『きょうもステージの上にいてくれてありがとう』と添えるのは、このときの経験をもとにしている。
きょうも、アイドルでいてくれてありがとう。
わたしたちの、愛をうけとめる存在でいてくれてありがとう。
わたしたちの世界で、生きていてくれてありがとう。
ただ、デビューをしたからといって、もう何も心配しなくていいってぬるま湯に勝手に浸かってたのは、わたしだけだったのかもしれない。
北山くんは永遠なんてないこと、継続することの難しさを知っている。
危機感をもって仕事をしている。
5年目の目標に、『変わらずに、メンバーがライブを楽しめて笑っていること』を見ている北山くん。
だからこそあらためて、感謝をしたい。
北山くんがきょうも、ステージの上にいてくれることに。
そして、『続ける』ための努力をしてくれていることに。
ジャニヲタなんて、ただ見つめていることしかできない。
意思を決めてしまった彼らをただ見届けることしかできない。
でもそうやって、ただただひとりの人生を見つめることが悪く無い、と思えたから、ジャニヲタに戻ってきました。
もちろん、北山くんがこの仕事を続けようと、努力をし続けてくれる限りね。
北山くんがきょうもステージの上にいてくれることに感謝を。
以上、北山担としての備忘でした。
はなむけのことばに代えて
2015年3月5日、Jwebから町田慎吾くん(Musical Academy)のプロフィールが消えました。
研修生扱いのジャニーズJr.、こうやって痕跡が消されることで、契約が終了したことを知らされる。とてもとても、寂しいものです。
伝えたい言葉も感謝もたくさんあったのにね。
思い出だけを残して、音もなく姿を消してしまう。
語り尽くせなかった気持ちと、はなむけの言葉を送るために、かっこいいことは言えないんで…ただいちヲタクの思い出話を語らせていただくことをお許し下さい。
町田くんは、私がジャニヲタになるきっかけをくれた人です。
10代のさいご、なんやかんやありまして(雑)いわゆるひきこもりの生活を送っていました。外の世界への恐怖だけがあって、その他になんの感情も持てず、何年もただ部屋の中で、人形のように、呼吸だけをしていた。眠ったまま心臓が止まる夢も何度も見ました。
そんなときになんでだか、ジャニヲタの姉がKYOTOKYO*1のパンフレットを見せてくれました。そこに写った町田くんに不思議なほどひっかかりを感じたんです。
かっこいい♡とかではなく(失礼)なんていうか、このひと人間なのかな?って。なんだか清濁色んな物を見てここにたどり着いたような、でもそれを受け入れ微笑んでいるような、とても不思議な雰囲気をもっていて、ただ単純に、この人に会ってみたい、と思ったのでした。
何も感じなくなっていた心に、久しぶりに宿った情動がそれでした。
そしてそこからが早かった。
ちょっとした理由をつけて京都に引っ越し、KTK通いを始めました。
現場に行くためには資金が必要なので、仕事をはじめました。元ニートができる仕事なんて限られてたから、できることなら何でもやって。
ヲタクどうしで交流したくて、サイトを作りました。(当時はファンサイトが主流でした)インターネット上から、友達付き合いができるようになりました。
そしてその経緯で得たものが現在の仕事にもつながり、その後十数年ごはんを食べていくための種になりました。
ひとりのひきこもりの心に火を灯し、光の下まで連れてきてくれたきっかけが、町田くんだったのです。
町田くんは、知れば知るほど不思議なこでした。
キュートでいじられキャラのようでいながら、ダンスに関しては熱く譲れないものを持っている頑固さも見え隠れしていた。
光一さんに憧れきゃっきゃする姿は乙女のようだったし *2
相方、大野氏への愛情はいつまでも深く、大野氏のデビュー後一時事務所を辞めたのも、そして他のどこでもなく、ジャニーズ事務所に再び戻ってきたのも、もしかしたら彼に対する感情が強く働き過ぎた結果だったのかもしれません。
そして、戻ってきたときにはけじめとして立ち位置をすっかり後ろに下げられ、それでもひたむきに、ただいま自分にできるパフォーマンスを行っていた。
その姿を見ていました。
そう、見ていた。映像にも記録にも残らない前提のJr.という存在は、それを見ていた人の記憶の中にしか残らない。だからこそ、『私が見た』姿を、ただ書き残しておきたいと思います。
『真夏の夜の夢』でのパック役は透明感のある人外のものな雰囲気を存分に活かして演じていたし、『NARUTO』のときは、サスケの役…!?原作ファンに叩かれない…!?けっこうなふわふわちゃんだよ…?とそわそわしながらも、イケメン役をなかなかにこなし。
はじめてのMAだけの舞台、『サバイバルアイランド』
強い個性とエンタメ精神、歌とパフォを存分に楽しませてもらいました。1回だけのつもりが、あまりに楽しくて何度もはいりたくなったなー。
そして印象に残ったのは『FAME』かな。
芸術の道を志す若者が集う学校、そのなかのバイオリン弾きシュロモ役。
とても繊細なひとで、愛憎の果てに自ら命を断ってしまうんですけれども。毎日シュロモとして命を断つのがつらい、とこぼすほど、どこか自らと近しいものを感じていた気がします。
繊細で感受性の強い魂が、何の鎧にもまもられることなく、生身のままただそこに存在しているような。
そう、町田くん自身にも、そんな繊細に揺れる精神性を感じていました。
最後に観にいった『爪牙』では、トークショーでただひたすらににこにこして両脇の若手俳優さんに愛あるフォロー入れられてるのが、かわいくもあり、なんだか心配でもありw
でも演技中はとても素晴らしく、事務所に推されている推されていないにかかわらず、やはりステージに上がるために生まれてきた人だな、と思っていました。
細かい思い出はたくさんあるけれど、なんだかあたたかく、ちょっぴりしょーがないなぁっていう気持を込めて、どこか家族のように、十数年の長い間、付かず離れず見守ってこれたことを素直にしあわせに思います。*3
最後に更新した町田くんのブログ。
大野さんとの飲み会の様子。『いつ、どんな時でも、悩みがあったらとんでくるし、一番の味方だし』そんなふうに言い合える仲が、20年前からずっと、より熟成されて続いていて、町田くんも、大野さんも、ひとりじゃない、大丈夫と思うことができた。
『20年、続けてこられたことを誇りに思う』
もしこのネットのすみっこにあるブログを読むことがあったら、ひとりのヲタクの心に灯火をともし、陽の光の下に連れてきてくれたことも、誇りに思ってほしい。
もらった灯火をできるだけ、消さないように、これからも生きていきます。
縦読みの『サヨウナラ』
ちゃんとお別れを言ってくれてありがとう。
はじめになぜあんなに町田くんに興味をもったのか、今なら少しだけわかる。感受性が豊かで、チャーミングで、人を傷つけることを嫌い、でも仕事に対しては真剣で凛として、まるで野に咲く一輪の桔梗のような美しさに惹きつけられたのだと思う。
…男のこを表現するのに適切な言葉かはわからないけど(笑
これからどんな人生を送るのかはわからないけど、町田くんを包む世界ができるだけやさしくあたたかいものであるように。さいわいが降り注ぎますように。
本当にありがとう。
拙い言葉で言い足りないことも山ほどありますが、ささやかなはなむけの言葉としたいと思います。
NODA・MAP『エッグ』@東京芸術劇場プレイハウス
皆さんがジャーニーに沸きに沸いてる中しかもお引っ越し一発めの記事がnotジャニの舞台かよってスライディング土下座なことしでかしてですみません。
今日書かなかったら忘れそうなのと書いておける場所がここしかないので、使わせてくださいませー。
NODA・MAPで(珍しくオリジナルのキャストで)再演が決まった『エッグ』。2012年以来2度目の観劇でした。2015年バージョン初。
舞台の梁の裏から見つかった寺山修司の遺稿『エッグ』。それを作品として蘇らせようとする芸術監督(野田秀樹)。リアルタイムで進む原稿の読み解きと作中世界が混在しながら、むしろ混乱しながら舞台が移り変わっていく。
この舞台のキーとなってくるのは、『多重構造』『書き換えられた物語』『気が付かないうちに誰かの靴を履かされ背番号をつけられていた男』『植え付けられた先入観』。
奇妙なスポーツ『エッグ』の世界に突如現れた脳天気な男、新星アベ。エッグの英雄として名を馳せたツブライのポジションと歌姫・苺イチエを颯爽とかっさらっていく。だがそれは英雄という名のスケープゴートになる筋書きのはじまりだった。
劇作原稿を読み解きながら何度も覆されていく世界。
「『オーナー』といったら普通は男を思い浮かべるだろう?でもそれは違う。オーナーは女だった。」
「エッグは男のスポーツではなく、白衣の天使から生まれたもの。」
「『東京オリンピック』は1964年の開催されたオリンピックではなく、1940年の、鈍色の空の下のオリンピック。開催されなかったオリンピックのことだ。」
「この物語の舞台は日本ではなく満州。」
卵を割らずに殻に穴を開け、中身を抽出するスポーツ『エッグ』は、いつしかユダヤ人を選り分けるために使われたパンチ穴(点字のような情報技術)、ワクチン製造、細菌兵器の製造技術の隠匿のための暗号、と変化をしていく。
寺山修司がこの物語に隠した、真実とは?
光が射すようなスポーツマンたちの物語を見ていたと思っていたら、気がついたら鈍色の空の下、満州の細菌兵器研究所に連れて来られていた。そんな印象を受ける展開が見事。
何気なく見ていた物語の前半部にも物語の終末を暗示する諸々が蜘蛛の巣のように張り巡らされていて、徐々にその全体像が見えてくるのが気持ちいいほど。
そして何度も何度も覆されるこの世界の謎がようやく解けたように見えたラストシーン、芸術監督が放つ一言で、まるで積み木で組み立てた家が蹴り飛ばされるかのように、丹念に作り上げられた世界が、まるごと崩されてしまう。
あなたが今見て生きている世界なんて、こんなふうに、誰かが作った物語を信じきってるだけかもしれませんよ、って言われているみたいに。
野田さんの手腕、素晴らしく鮮やかだったなー。
演者さんのなかで印象に残ったのは、苺イチエを演じた深津さん。
いろんな舞台でお見かけしますが、キャスト見ないで行くと、深津さんだと最後まで気づかないことがあるくらいなんだよね。そのくらい、ご本人の気配を消している。
カテコでは役がすっと抜けて、現実に戻ったように出ていらっしゃる役者さんも多いですよね。そんな中深津さんは、まだ苺がそこに生きているかのようにふるふると震えるように涙をこぼしてらして、この方は、舞台の上では劇中の人物として生きてしまう女優さんなのかな?と感じました。
『芸術監督』『スケープゴート』『英雄』『オーナー』と、ある意味役割が明確に与えられそれを遂行する役柄が多い物語の中で、唯一と言っていいほど人間らしく感情を爆発させる苺。
一期一会の恋に生き、真実を追求しようとし、アベを憎み、罰されることさえ許されず、最後は憎んだ相手のそばで死ぬことを選んだ苺。
そんな激しく重すぎる人生を、毎日毎日繰り返し生きるってどんな気持ちだろう。舞台役者っていうのは、想像を絶する生き方だなって(ご本人はぜんぜんそんな気持ちではないのかもしれないけど)思ってしまいました。
世にも奇妙なの『懲役30日』をちょっと思い出した。ご興味ある方はぜひぐぐってみてくださいね。
野田さんの舞台は演劇体験としても素晴らしいですけど、戯曲で読み返したくなるような言葉たちもさすが。
個人的に印象に残ったのは、「大衆にはスポーツと音楽を週に一回与えておく。そうすれば大方の不満と疑問はかき消されるのよ。」「あなたは広報部長に就任よ。振り付け師よりも大衆を踊らせるほうがずっと楽しいわ。」っていうオーナーの言葉ですかね。笑
いやーわたし完全に踊らされてる側の人間ですわー。って耳が痛かったですw ヲタクって大衆と呼ばれるのを嫌う生き物だと思うんですが、あまりの鮮やかな斬られっぷりにわたし大衆ですすみませんでした!ってなりましたよね!
もちろん他にも美しく、深く、痛い名台詞がたくさんありました。戯曲探してちゃんと思い出そう。うん。
再演だからどうしよっかなーと思ってたんですが、行ってよかった。初演の時はとにかく怒涛の波に連れ去られてあっぷあっぷなんかよくわかんないけどすごいこと起こったぞ!!って感想でしたけれども、もうすこしいろんなことに気づきながら観れたかな。
でもたぶんまだぜんぜん気付けていない仕掛けが山ほどあるんだろうなと思います。野田さん頭良すぎる。
現実にあった満州の731部隊のこととか、寺山修司のこととか、知れば知るほど深く気づいてしまう(そして現実に恐怖する)ことが増えるんだと思う。
興味ひけるように書けたか謎ですが(そもそも読んでくださってる方は基本ジャニヲタである)とにかく最高の演劇体験ですので、ご興味ある方はどうぞ!当日券出てます!
NODA・MAP『エッグ』
http://www.nodamap.com/egg/
さてじゃーにーの感想はいつ書けるのか!
ひとまずFIRE!!をあと32回リピートしてから寝ます。おやすみなさーい!
引っ越してきました。
ごあいさつ
はじめまして。もしくはいつもお世話になっております。キスマイ北山担のすいと申します。この度アメブロより引っ越してまいりました。
現場を中心に活動しておりまして、レポ、ツイログ等がメインになる予定です。
旧サイト(2010〜2014年)
2010年から4年間の記事が詰まっています。
タイトル「昭和もち肌ロマン」
変更しました。すぃーてぃーってぴー担じゃないからこっちが先だから!!って言いはるのに疲れたから(ry というのは冗談です。解析を見たところ、検索ワードにプロフ名は多いのにタイトルは少なかったため、覚えにくいかな?と変えてみました。1分で思いついた雑な仕上がりですみません。昭和のもち肌大将といえばキスマイ北山くんということでご了承ください。
コメント
移行の関係もあるので、当初はどなたでもコメントできるように設定してあります。レスは非常にマイペースです。ごめんなさい。
読んだよ!のスターをぽちっとしていっていただけると泣いて喜びます。
Twitter
普段はツイの方に生息しています。よろしければ遊びに来てくださいね。
@KiswtS
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。